18.静かな声




仁王立ちになった慎吾が、自分の身の丈ほどもありそうな巨大な旗を振っている。
校章を染め抜いたその旗が翻るたび、大量の砂埃が舞って、祥太郎は顔をしかめた。

「ねええ、桜庭君、その旗何とかならないの…もちょっと控えめに振るとかさあ…ぶは!」

迂闊に喋ってしまったせいで、口の中がザラザラ言う。手を止めて振り返った慎吾も、実はやはり同じ目にあっていたらしく、盛大に眇めた目を真っ赤にさせていた。

「なに言うとるねん。運動会言うたら、応援団がつきものやないの。せっかくこんな旗があるていうのに、今振らんでいつ振るのや。」
「応援団なんて言って、旗なんか振ってるの、桜庭君だけだよう。応援は旗なしでも大丈夫だってば…!」
「ぬうう、チームの数だけ旗もあるっちゅーのに、なんちゅー愛校心の欠けた奴らや。ここはいっちょ、この桜庭慎吾様が全員の分も張りきらな!」
「うわ! だから埃が立つってば…! ちょっと国見君、お目付け役がなにして…あれ?」

いつも慎吾に寄り添っているはずの天音はと振り返ると、ちゃっかり一番後ろの列にパラソルを用意してお茶など啜っている。おざなりに腕に巻いたピンクの鉢巻で、参加する意思がサラサラないことを示していた。

「私は無駄な努力はしない主義です。慎吾の面倒は祥太郎先生にお任せしますよ。
私が参加するだけ、大いに譲歩したと思ってください。」
「参加…してないじゃない〜!」

祥太郎は思わず泣き言を言う。そういえばいつの間にか自分たちの周りには誰もおらず、慎吾とちゃんと会話できる位置にいたのは祥太郎だけのようだ。

「祥太郎先生! ほらまっすぐ前見て! 今直哉が走ったのちゃんと見とった?」
「えっ、直哉君もう走っちゃったの? ああ〜…。」

慌てて直哉の長身を探したら、ちゃっかり1着の旗の下でふんぞり返っている。すっかり直哉の出番は終わってしまったらしい。
祥太郎は首を竦めた。直哉の得意の短距離走で、必ず一位を取るから見逃さないでくれと散々言われていたのだ。
事の顛末が直哉に知れたらまたやかましいに違いない。
しかし、おもしろがりの慎吾が、今の一幕を黙っていてくれるはずもない。



案の定だった。意気揚々と引き上げてきた直哉は、祥太郎の傍に行く前に慎吾に捕まってあらましを聞かされたらしい。物凄く渋い顔をして祥太郎を睨んでいる。
祥太郎は気まずさを隠す為に、ついいつものように胸の前で手を組んでしまう。ちょいと首を傾げれば、大抵のことなら直哉が聞いてくれることも、祥太郎には分っている。

「ごめん…、直哉君の活躍、見損ねちゃった…。」
「………あれだけ、ちゃんと見て下さいねってお願いしたのに…。」

直哉の眉間の皺が加速度的に増えていく。祥太郎は首を竦めた。

「だから、ね、次に出走したナツメ君はちゃんと見たから…。」
「尚悪いじゃないですか!」

回りが振り向くような大きな声で直哉は憤る。喜んだのはナツメだった。

「祥太郎先生、俺の走りだけはちゃんと見てくれたんだ! いやあ、嬉しいなあ!」
「や、別に、ナツメ君だけを見てたわけじゃ…。」
「おまえはくちばしを突っ込むな! これは祥先生と俺の問題だ!」
「でも俺のことはちゃんと見てくれたわけだし。」

ナツメはさも満足そうに笑う。直哉の眉間の皺に加えて米神に血管まで浮かび上がる様子を見て、祥太郎はヒヤヒヤした。
あまり直哉を煽らないでほしい。落とし前はベッドに持ち越されるのに決まっているのだ。

「次に二人三脚がありますから、一緒に出ましょうよ、祥太郎先生! がっちり抱き合って走りましょー!」
「祥先生はもう俺とエントリー済みだ! おまえはすっこんでろ!」
「大丈夫、今からでもエントリーなんていくらでも変えられるし!」
「あ、あのう…僕は本当に何にも出る気ないんだってば…。」

祥太郎は大きな二人の間に挟まってオロオロする。二人の声が大きくて、回りまでもが興味深そうにこっちをみているのが分る。
こんな痴話喧嘩みたいな展開、なるべく避けて欲しい。

「ナツメは僕と一緒に二人三脚をするんだよ。」

静かな、それでいて通る声がして、ナツメが一瞬息を呑んだ。
祥太郎が振り向くと、そこにはぎゅっと拳を握った蓮が立っていた。
蓮は祥太郎を見ると、一瞬決意をあらわにするように唇を引き結んだ。

「な…なんだよ。俺は祥太郎先生と走るって…。」
「僕、もう遠慮するのは止めたんだ。おじいさんたちが争っていたって、それが僕たちの不仲の原因にはならないよね、ナツメ。」

祥太郎は目を見張った。祥太郎の脅しが効いたのだろうか。強い目をした蓮には、つい先ほどまでの弱々しい印象はなく、まっすぐな物怖じしない瞳でナツメを見つめている。

「君が僕を避けるわけも、ちゃんと教えて欲しい。そして、昔みたいな仲良しに戻って欲しいんだ。
だからとりあえず、これからの競技は、僕と一緒に出るんだよ。」

「…昔みたいな仲良しになんて…なれるわけないじゃんか。」

小さく声が漏れる。ナツメは先ほどまでの満面の笑顔を一転させていた。その顔が何か淋しそうに見えて、祥太郎はハッとする。
つんと顎を上げたナツメは、蓮のほうを見ないまま、きびすを返してしまう。
取り残された蓮は、また唇を噛み締めていたが、やがて祥太郎のほうに浅く礼をすると、ナツメとは違う方向に歩いていった。

「あいつら…、俺を当て馬にしようとしてやがるな…。」

ないがしろにされていた直哉が、おもしろくなさそうに呟くのが聞こえた。





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